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後藤達夫氏から


各位

私の視点から追加情報をお送りいたします。



平成 22 年度同窓会

1.新機軸

今回の幹事学年は77回でしたが、新しい点として学友会の今年の役員が出席し、若者
の元気な挨拶を老人達に送った、という点です。

この段階で私などははやくも精神の高揚をきたし、荒削りなれどストレートなパワー
をいただいたことでした。

2.シンポジウム

第二校歌の解釈で私がもっとも赤面した点は

「空しかるべき男やも いで獨歩せん天地に」を大声でうたいながら、その意味は

男子たるもの、徒手空拳(むなしかるべき)であっても 千万人といえども臆せず天
下を闊歩すべきである」と脳の空しい解釈をしていたことで、

実は『万葉集巻六 九七八 山上憶良』に『おのこやも空しくあるべき 万代に語り
継ぐべき名は立てずして』が出典であり、それほど元気な歌でもなかったということ
でありました。



この講演を聴いて、私には2点の疑問が発生した。

疑問1.上諏訪学生団による校歌指導会のとき、『うみ紅にたそがれて 城の夕べの
花嵐』という歌詞を一高寮歌『ああ玉杯に花受けて』のメロディで歌った記憶があ
る。

歌詞はここまでしか覚えていない。この歌の背景、歌詞がどう続くか知りたい。

疑問2.入学の時、69回の古原元校長が指揮して短調に変わる前の元気な第二校歌の
メロディを発掘し、歌って見せたことがあった。

今回の古文の専門家(第二校歌解釈の講師は77回武居美博君・現国研)のよる分析の
ほかに音楽の専門化による長調から短調への変化の研究があってしかるべきか。

これを質問しようとしたが、今年も38回立木先生の長舌によって阻止された。ちょっ
と暗い短調になったのは第二校歌成立の時代背景をツァイト・ガイストとして空気を
読んだ進化だったのかもしれない。第二校歌成立の背景について77回長田光正君が講
じたが、その知識を借りて考察すると、校歌の制定が明治36年(1903)、4回中島喜
久平氏がこの曲を作ったのが日露の大戦の直前。努力すれば報われるの神話が通用し
た維新直後から時が過ぎ、「あれっ、ちょっと違うな」と振り返る時期、そうはいっ
ても国が滅ぶかもしれない日露戦争の戦雲。中島氏の才能は近代の煩悶を先取りした
のかもしれない。



3.懇親会

小林君がニコンのディジタル1眼を駆ってカメラマンとして記録写真をとっていた。

ここでも77回の新機軸で現役音楽部のアカペラで“ウィスキーがおすきでしょう”が
オープニング。

小林カメラマンは当然のことながら自分の写真はとれない。そこで私はお安いコンパ
クトデジカメを取り出し、小林君をねらった。

そこでストロボを打ってしまい、岩本君に「演奏中にストロボは駄目だぞ。」と怖い
顔でこっぴどく怒られてしまった。

小林君はデータを磯野さんに送るといっていました。わたしもデータをCD-ROMでデー
タを磯野さんに送ります。

私のデータはかかる苦難の末獲得したもので月曜日発送します。



4.モンシェリ

昨年はやけにテンションがあがり周囲に迷惑をかけたという自覚から今年の私はちん
まりしていました。

御子柴君からマッカラン18年というものすごいものを一杯のませてもらって(御子柴
君ありがとう)それに対する畏敬からおとなしくなってしまったのかもしれない。

昨年は日猶同祖論でハイテンションだった。

ことしは、諏訪湖に流入する31の流入河川中15が一級河川であることから、諏訪湖の
一級河川のフィールド調査を実施している。

衣之渡川、中門川、上川、宮川、島崎川、角間川を遡行調査。驚いたことは調査をお
えた川がすべてつながっていたことである。

さらに宮川には藩政時代から文出村に二十石で管理を委託した『文出大堰』というの
があることをこの年になって初めて知った。また「四軒屋神社」など新田開拓フロン
ティアの跡もみつかる。あちこちに河川港があり、諏訪盆地は河川網による規模の大
きい水運がおこなわれていたらしい。富の蓄積が行われていたのだろうか。

化政期に起こった諏訪騒動なども他地域によく見られる勃興する資本主義とそれを押
さえ込みにかかる封建制とのせめぎあいではなかったかと想像は際限なく膨らむ。

この点を熱く語ったのだがすべては御柱トピクスと宮下君の木遣りに吹き消され「諏
訪人はユダヤ人の末裔であり、製鉄と馬の生産を握った古代機甲師団だったの
だ!!」という昨年の議論ほどはもりあがらなかったのであった。



以上雑感として報告提出。





旧五部上諏訪学生団、後藤達夫